アパルトヘイトに対しては
アパルトヘイトに対しては、対象人種だけでなく、主にイギリス系の白人の多くから反発があった。イギリス系よりもアフリカーナが公職でははっきり優遇されていた。代表的な反アパルトヘイト運動として、ネルソン・マンデラ氏が所属していたアフリカ民族会議(ANC)や南アフリカ・インド人会議(SAIC)など。のちにアフリカ民族会議は分裂し、パンアフリカニスト会議(PAC)ができる。 1955年には、ANCやSAICなどによりクリップタウンで自由憲章が採択されるが、政府はそこに集まった群衆を解散させ、翌1956年には中心的な活動家を反逆罪で告訴した。
洒落暮しサーチ
青いメロディー
青春時代
赤レンガ
前代未聞の大誠
総合スポーツの成長
孫悟空
大好きお父さん
大暴走レシピ
男爵の雑記帳
鉄道むすめ
天狗村
天秤座
桃花の無茶苦茶生活
動物園物語
二人のクリスマス
梅さんの夏メロ
爆走!鎌倉街道
美海の摩訶不思議
百花の知らぬが仏
1980年代に入ると、国内各地でますます反対運動が激化、また、国際的な経済制裁を受けた。これらを受け、1989年9月に大統領に就任したデクラークはこれまでの政府(国民党)の方針を転換し、撤廃に向けての改革を進展させた。その政策方針により、1990年 2月、ANC やPAC、南ア共産党を合法化し、ネルソン・マンデラを釈放した。91年2月には国会開会演説でアパルトヘイト政策の廃止を宣言し、6月には人種登録法、原住民土地法、集団地域法が廃止され、アパルトヘイト体制を支えてきた根幹法の最後の法律が廃止された。しかし「選挙法」「教育および訓練法」など22のアパルトヘイト法と数百の人種差別的条例がまだ残っていた。91年から94年までの3年間、南アフリカ社会は体制移行期の危機的な混乱を何度も経験した。1993年4月に極右の白人議員の指示によって一人のポーランド人移民が、当時ANCのナンバー3だったクリス・ハニ氏を殺害したことは、とりわけ記憶されていいだろう。そしてようやく、1994年4月に全人種参加の初の総選挙が行われ、憲法が制定され、ネルソン・マンデラが大統領になり、アパルトヘイトが完全に撤廃されたのである。