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2009年02月10日

殉死(じゅんし)

殉死(じゅんし)とは、王や皇帝、首長、祭司王などの喪や埋葬に際して、近親者や従者がそれを追って死ぬこと。殉葬。殉死者が自殺する場合と、体制側が強制的に殉死者を選別する場合がある。
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殉死を禁じる時代もあったが、それは殉死によって優秀な人材を喪失するのを避ける目的や、道徳に反することを恐れて禁ずる目的があったと考えられる。

古代エジプトやメソポタミア、古代中国、古代朝鮮半島などにおいては殉葬が行われた。

考古学的に確認できる確実な殉死の例はなく普遍的に行われていたかは不明であるが、弥生時代の墳丘墓や古墳時代には墳丘周辺で副葬品のみられない埋葬施設があり、殉葬が行われていた可能性が考えられている。また、5世紀には古墳周辺に馬が葬られている例があり、渡来人習俗の影響も考えられている。

中国の歴史書『三国志』の魏志倭人伝に、「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」とあり、邪馬台国の女王卑弥呼が死去し塚を築いた際に100余人の奴婢が殉葬されたという。また、『日本書紀』垂仁紀には、野見宿禰が日葉酢媛命の陵墓へ殉死者を埋める代わりに土で作った人馬を立てることを提案したという(埴輪の起源説話であるが考古学的には否定されている)記載がある。

『書記』大化2年(646年)3月22日条によれば、大化の改新の後に大化薄葬令が規定され前方後円墳の造営が停止され古墳の小型化が進むが、このときに人馬の殉死殉葬も禁止されている。

武士の殉死
主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切った場合、家来達が後を追って、討ち死にしたり切腹することや、または、その場にいなかった場合、追い腹をすることは自然の情及び武士の倫理として、早くから行われていた。中世以降の武家社会においては妻子や家臣、従者などが主君の死を追うことが美徳とされた。主君が病死等自然死の場合に、追い腹を切る習慣は、戦国時代になかったが、このため世代交代がうまく行かず、結局亡国の憂き目にあった大名家も多くいるとする説がある。

江戸時代に入ると戦死する機会が少なくなったことにより、自然死の場合でも近習等ごく身近な家臣が追い腹をするようになった。ところが、カブキ者が流行り、追い腹を忠臣の証と考える風習ができ、世間から讃えられると一層まねをするものが増えた。遂には近習、特に主君の寵童(男色相手を務める者のうち、特に主君の寵愛の深い者)出身者、重臣で殉死を願わないものは不忠者、臆病者とまで言われるようになった。この弊害に、名君といわれる大名は早くから気づいており、殉死を抑えようとしたが、あまり効果は無かった。なお、家を後継したばかりの若い主君では、先代の重臣たちに実務面で太刀打ちができず、主君を中心とした統一的な行動が難しくなる。そこで主家のために、先代に重く用いられたものは潔く死に、円滑な世代交代を実現する役割があったとする説もある。

明良洪範では殉死を真に主君への真の忠義から出た「義腹」、誰かが殉死するために自分も殉死しなければならないとする理屈に基づく「論腹」、殉死することで子孫の栄達を図る「商腹」に分類している。しかし、殉死者の家族が加増を受けたり栄達したケースは皆無であり、「商腹」は歴史的事実ではないとされる[1]。

1663年、4代将軍徳川家綱、5代綱吉の治世期に幕政が武断政治から文治政治すなわちカブキ者的武士から儒教要素の入った武士道(士道)へと移行し、寛文3年5月(1665年)の武家諸法度の公布とともに殉死の禁が口頭伝達され、天和3年(1683年)には末期養子禁止の緩和とともに殉死の禁は武家諸法度に組み込まれ本格的な禁令がなされた。

近代
明治には、1912年の明治天皇崩御の際に殉死した陸軍軍人の乃木希典の殉死が社会的影響を与えた。

死生観
呪術 (殉死は呪術的な死生観に基づくとも言える)
切腹・心中
サティー (ヒンドゥー教)(「貞淑な妻」を意味する。亡夫の火葬の際、妻がその炎に飛び込んで追死するインドの古い風習。)
自殺

サティー (ヒンドゥー教)
サティー(Sati, सती)は、ヒンドゥー社会における慣行で、寡婦が夫の亡骸とともに焼身自殺をすることである。本来は「貞淑な女性」を意味する言葉であった。

この慣行についてヒンドゥーの法典に根拠となる記述はなく、いつ頃始まりどのように広がっていったのかはっきりとは分かっていない[1]。史書なきインドと言われているように、ヒンドゥーやバラモン教徒による古代インドの記録は存在しておらず、サティーについての記録はヨーロッパ人やアラブ人の記録に見受けられる。古くは紀元前4世紀のギリシア人は西北インドで寡婦焚死の風習があった記録を残しており[2]、9世紀の『中国とインドの諸情報 第一の書』[3]や、14世紀のイブン・バットゥータ『大旅行記』[4]といったアラブ人による書物にも記載がある。

17世紀のムガル帝国で支配者層であったムスリムはサティーを野蛮な風習として反対していたが、被支配者層の絶対多数であるヒンドゥー教徒に配慮し、完全に禁じていたわけではなかった。その代わり、サティーを自ら望む女性は太守に許可を申し出るよう義務付け、ムスリムの女性たちを使って可能な限り説得を行い、それでもなお希望する者にのみ許可を与えた。必ずしも寡婦の全てがサティーを望んだわけではない。また、全ての土地にムスリムの太守がいるわけではなく、説得が行われていない地域もあった。中にはヨーロッパ人や家族の説得に応じて寸前で思いとどまった者もいたが、ほとんどの志願者は夫と共に焼け死ぬ貞淑な女性として自ら炎に包まれた。炎を前に怖気づいた者は周りを囲むバラモンに無理やり押し戻されるか、仮に逃げたとしてもそれを目的に見物に集まっていた異教徒たちに襲われその餌食となった。[5]

18世紀の初めにはサティーはほとんど行われなくなったが、イギリス植民地時代の18世紀末以降、ベンガル地方の都市部で再び盛んになる。理由は諸説あり、植民地時代の混乱の中で寡婦が夫の幽鬼を宿す不吉な存在として不安の矛先が向けられたという説や、ベンガル地方の法律が寡婦に相続権を認めており夫の親族によってサティーを強制されたという説もある[6]。イギリス東インド会社はサティの問題を早くから認識していたが、セポイの反乱を恐れ、具体的な対処は19世紀以降になる。1810年代に入り、16歳未満、妊娠中、幼子がいる場合、強制された場合を非合法とし官吏を立ち合わせたが、サティーの件数は増大し社会問題になった。

1818年、ブラフモ・サマージの創設者でヒンドゥー社会改革運動の先駆者ラーム・モーハン・ローイが『宗教儀礼としての寡婦の火葬に関する議論の妙録』という冊子を出版し、ヴェーダや法典にサティーの根拠が見られないとし、その廃絶を訴えた[7]。ローイらの努力により、1829年にベンガル総督ベンティンクによって、サティー禁止法が制定された。また、1830年にはマドラス、ボンベイにおいても禁止法が制定された。しかし、禁止法の制定以後、現在においてすら稀にではあるが慣行として行われ続けている。

叙事詩における例
貞淑の証として、火による自殺を図った女性は叙事詩に2人登場する。一人はラーマーヤナにおけるラーマの妻シーターであり、もう一人はマハーバーラタにおけるシヴァの妻サティーである。ランカーの王ラーヴァナによってシーターは誘拐され、戦いの末、ラーマはシーターを救出するが、ラーマはシーターの貞操を疑う。シーターは身の潔白を証明するため、聖火に飛び込む。結果、シーターは火傷を負わず、ヒンドゥーの火の神アグニが現れ潔白を証明する。これは同様の聖火による神明裁判が古代インドで行われていたことを示している。[8]ダクシャの娘サティーはシヴァと結婚するが、シヴァを快く思っていないダクシャは祭儀にシヴァを招かず、怒ったサティーは聖火に身を投じ死んでしまう。後にサティーはヒマラヤの娘パールヴァティーに転生し、再びシヴァの妻となる。サティーの慣行の起源を女神サティーに求めるものもいる。

サティーの儀式
サティーの儀式は。夫の葬儀の儀式の後に行われる。サティーの儀式の最後には、夫の葬儀で用いた石を供養しする「石の礼拝」(シラー・プージャナ)を行う。これらが終わった後で、寡婦は炎に包まれる。

ヒンドゥーの葬儀
ヒンドゥーでは死者は、薪の山 に乗せ、会葬者の前で火葬にふす。死は穢れであり、火が死者を天に昇らせる唯一の方法とされるからである。その人の生前の行いの結果(カルマ、業)により、転生後の新たな生がもたらされる。変死したもの、葬式を行わなかったものの霊は地上に止まり、悪霊(ブート)、亡霊(プレータ)として人に災いをもたらすと信じられている。灰は体の燃え残りとして川に流され、シンガポールやバリ島の一部地域を除いて墓は作られない。

寡婦と婚姻制度
男女の寿命の差もあるが、寡夫より寡婦が圧倒的に多くなるのにはヒンドゥーの婚姻制度に原因がある。幼児婚や持参金制度により、夫と年齢とはなれた婚姻が成立し、それが結果としてサティーに結びついている。

ヒンドゥー教徒同士の結婚は制約が多く、他のカーストや近親を避け、適当な夫を確保するため早々に娘を結婚させる慣習がある。女性はまだ幼いうちに嫁ぎ先の家に入り、生家ではなく嫁ぎ先のしきたりを覚え、男子を産んで初めて発言権を得られるようになる。結婚年齢についても、マヌ法典においては男性30歳の場合、女性は12歳が最もよい結婚年齢としているように、女性に絶対服従を求める男性にとって都合がいいよう、特に女性の早婚が伝統的である。この年齢差が寡婦を多く生み出す要因となっていた。19世紀半ばには10歳以下の女性との結婚は禁止され、その後も徐々に引き上げられ、1978年の幼児婚抑制法では男子21歳女子18歳に最低婚姻年齢が引き上げられた。違反したからといって婚姻が無効にされるわけではないが、1976年の婚姻法改正で、婚姻の成立に関わらず女子に幼児婚の否認権が与えられている。

また、ダヘーズ(もしくはダウリー dowry)と呼ばれる花嫁側に求められる多額の結婚持参金制度も問題であり、持参金の支払いができず年齢が著しく離れた男性との結婚を余儀なくされる場合もあるために、多くの女性が若くして寡婦となる一因ともなっている。ダウリの額は嫁側の社会的・経済的な地位や、婿の教育や職業によって異なる。娘を持つ父親にとっては多大な負担になり、女児の誕生が望まれない理由である。ヒンドゥーの結婚式は大概の場合派手であるが、その莫大な費用も全て花嫁側の負担となる。ガンディーも、ダヘーズを要求する者はその者自身の教育と国家を汚し、女性の名誉を傷つけるとし非難している。1961年にダヘーズを禁止する法律(Dowry Prohibition Act)が制定されたが、未だこの慣習は完全になくなっていない。

寡婦と家族制度
伝統的なヒンドゥーの合同家族制度の元では女性は結婚によって、夫の家族に属し、扶養される権利だけを持つ付属物でしかなかった。マヌ法典に、女子は決して独立に値ざりしとあるように、伝統的にヒンドゥー社会で女性の地位は低かった。近年、女性差別の撤廃、地位向上、社会進出へ向け法整備が進められている。

ヒンドゥーにおける理想的な女性とは、貞節を守り、献身的に夫に尽くす女性である。サティーが盛んになった19世紀ごろ、再婚は堕落とみなされ、寡婦は厳しい禁欲生活を余儀なくされていた。また、上位カーストでは寡婦は不吉な存在とされた。家族の中での差別に耐え切れず、誘惑に負け、不品行のみならず、犯罪や嬰児殺しを犯したりする者もいた。再婚法の制定は、ヒンドゥー社会改革運動の主題とされた。しかし、再婚による待遇の改善を寡婦たちには望んでおらず、また婚姻慣習にも事実上影響はなかった。再婚法の失敗以降、教育によって寡婦の自立を目指す運動が広がっていった。

文学作品における言及
植民地支配を通じて人と情報の行き来が盛んになると、この「慣習」の存在について本国人の間でも伝え及ぶこととなり、そのため欧米諸国の文学作品においても、主に「異国の奇妙な」「野蛮で非人道的な」風習として度々言及されてきた。有名な例としては、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』の中で、寡婦のスカーレットがキリスト教の形式的な教義から亡き夫に縛られていることをレット・バトラーが揶揄する言葉として登場する。(なお、これに対してスカーレットは、「セッティー(settee:「長椅子」)?」と尋ね返してバトラーの笑いを買っている。)

1872年に発表されたジュール・ヴェルヌの小説『八十日間世界一周』に、サティーの儀式から女性を救い出す場面がある。インドのブンデルカンド地方で、主人公のフォッグとパスパルトゥーの主従は王の葬儀に遭遇し、大麻で朦朧としている様子の女性を目にする。現地に駐在するイギリス人のサー・フランシスは主従の疑問に対し、いけにえであり、自発的なものであると答える。そして、サティーを行わなかった場合、寡婦が亡夫の親族からどのように扱われるか説明がされている。翌朝、サティーの儀式が行われる前に、この女性アウダは救い出され世界一周旅行に同行するようになる。


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